招詞 ヨハネによる福音書8章12節
「イエスは再び言われた。『わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。』」
序
・皆さん、おはようございます。
聖霊降臨節第八主日の礼拝に、主が私たち一人ひとりを招いてくださったことを感謝します。
・今日、私たちに与えられている御言葉は、サムエル記上3章1節から18節です。
説教題は、「神のともしびは消えず」です。
起――暗い時代にも、ともしびはまだ消えていない
・この物語は、とても静かな夜の場面から始まります。少年サムエルは、祭司エリのもとで主に仕えていました。神の箱が置かれた主の神殿で、夜の務めをしていました。ところが聖書は、その時代についてこう語ります。「そのころ、主の言葉が臨むことは少なく、幻が示されることもまれであった」。これは単に、珍しい出来事が少なかったという意味ではありません。
神の民が、神の言葉を聞いて生きる力を失いかけていた、ということです。
礼拝の場所はありました。祭司もいました。儀式も続いていました。
けれども、神の言葉を本当に聞く耳が弱っていたのです。エリの目はかすんでいました。それは年齢による肉体の衰えでもありますが、同時に、霊的な見通しの暗さをも思わせます。エリの息子たちは祭司でありながら、神を畏れることを失っていました。神に仕えるはずの場所で、人間の欲望が幅を利かせていました。
神の民は、外からの敵だけでなく、内側からの腐敗にも苦しんでいたのです。
しかし、そのような暗い時代について、聖書はもう一つの大切な言葉を置いています。
「神のともしびはまだ消えていなかった」。
この一文は、今日の御言葉全体を照らす光です。
人間の側では、信仰が弱り、礼拝が形だけになり、指導者の目もかすみ、若い世代も主の声を聞き分けることができない。そういう夜でした。
それでも、神の側のともしびは消えていませんでした。
私たちも、ときどき同じような夜-時を経験します。教会に来ている。讃美歌を歌っている。
聖書を読んでいる。けれども、心の深いところでは、神の声が遠く感じられる。
祈っても、すぐに答えが見えない。
家族のこと、健康のこと、仕事のこと、社会のこと、教会の将来のことを考えると、不安が先に立つ。
そういう時があります。信仰者であっても、暗さを感じることはあります。けれども、聖書は私たちに告げます。
暗いから神がいないのではありません。
見えにくいから、神のともしびが消えたのではありません。
人間の信仰が小さくなっても、神の恵みが小さくなるわけではありません。
人間の耳が鈍くなっても、神が語ることをおやめになったわけではありません。
神のともしびは、まだ消えていないのです。たとえば、夜遅く帰宅したとき、家の窓に小さな明かりがともっているだけで、人はほっとすることがあります。大きな照明でなくてもよいのです。
玄関の小さな灯、台所のわずかな明かり、誰かが待っていてくれるような光。
それだけで、暗い道を歩いてきた心が少し緩みます。
サムエル記が語る「神のともしび」も、そのような慰めを思わせます。
イスラエル全体を明るく照らすような大きな光景ではありません。
むしろ、今にも消えそうに見える小さな火です。しかし、その小さな火が、神はまだここにおられる、神はなお民を見捨てておられない、と告げているのです。
・皆さん、私たちの信仰生活にも、今にも消えそうに見えるともしびがあるのではないでしょうか。
祈りが以前ほど熱くない。聖書を読んでも心に入ってこない。教会の交わりの中でも、喜びより疲れを覚える。家族の救いのために祈ってきたけれど、長い間変化が見えない。
そういうとき、私たちは自分で自分を責めます。「私は信仰が足りないのではないか」
「私の中の火は消えてしまったのではないか」と。しかし、今日の御言葉は、まず私たちの弱さではなく、神の真実を見なさい、と語ります。神のともしびは、私たちの感情によって燃えたり消えたりするものではありません。神ご自身の恵みの火です。
主が守ってくださる火です。
ここで少し黙想したいのです。少しの間、目を閉じてお聴き頂けますでしょうか?
暗さそのものが問題のすべてではありません。
暗さの中で、どこを見ているかが問われます。
エリの目はかすんでいました。
時代も暗かった。
人々の信仰も弱っていました。
けれども、神の箱のそばに、まだともしびがありました。
主の臨在を示す場所に、まだ光が残されていました。
私たちも、自分の失望だけを見つめるなら、闇はますます濃くなります。
しかし、御言葉に照らされて神の真実を見るなら、闇の中にも消えない光があることに気づかされます。
ですから、今日この礼拝に来られた方の中で、「自分の信仰は弱い」と感じている方がいるなら、
どうかその弱さだけで自分を判断しないでください。
神は、弱い信仰をあざ笑われる方ではありません。
「主は、傷ついた葦を折らず、くすぶる灯心を消さない方です(マタイ12章20節、イザヤ42章3節参照)。」
・私たちの内側ではなく、神の側にある確かなともしびを見上げましょう。
礼拝とは、その光の前に身を置くことです。自分で自分を明るくするために集まるのではありません。
世の光であるキリストに照らされるために、私たちはここに集められているのです。
承――主は名を呼び、聞く耳を育ててくださる
・その夜、主はサムエルを呼ばれました。「サムエルよ」。
サムエルはすぐに起き上がり、エリのところへ走って行きます。「はい、ここにおります。お呼びになりましたので」。
とても素直な姿です。
少年サムエルは怠け者ではありませんでした。主の神殿で仕え、年老いたエリにも忠実に仕えていました。
けれども、まだ主の声を聞き分けることはできませんでした。
ここに、私たちへの慰めがあります。主は、完全に分かっている人だけを呼ばれるのではありません。
信仰の経験が豊かで、すぐに御声を聞き分けられる人だけを用いられるのでもありません。
サムエルは、最初は間違えました。
二度目も間違えました。
三度目もエリのところへ行きました。
それでも主は、あきれておやめになりませんでした。
何度も呼び続けてくださいました。
信仰は、最初から何でも分かることではありません。
聞き間違えながら、迷いながら、導かれながら、少しずつ主の声に耳を開かれていく歩みです。
大切なのは、サムエルが呼ばれたときに起き上がったことです。「はい、ここにおります」と応答したことです。
たとえ相手を間違えても、そこには聞こうとする姿勢がありました。
主は、その小さな聞く姿勢を用いてくださいます。
・やがてエリは気づきます。「主がこの少年を呼んでおられる」。エリ自身は弱さを抱えた祭司でした。
家庭を正しく導き切ることができませんでした。けれども、この場面でエリは大切な務めを果たします。
サムエルにこう教えます。「主がお前を呼ばれたら、
『主よ、お話しください。僕は聞いております』と言いなさい」。これは、信仰の共同体の美しい姿です。
完全な人が完全な人を育てるのではありません。
弱さを持つ者が、なお神に用いられて、次の世代に「主の声に聞きなさい」と伝えていくのです。
そして主は、四度目にサムエルを呼ばれます。聖書は、主が「来て、そこに立ち」と語ります。
遠くから声だけが響いたのではありません。主が近づいてくださったのです。
サムエルが神を探し当てたのではありません。神がサムエルのそばに立ってくださったのです。
ここに福音の形があります。私たちが神に届くのではありません。神が私たちのところへ来てくださるのです。
私たちの信仰の中心には、いつもこの恵みがあります。
神は、私たちが充分に清くなったら、十分に強くなったら、十分に理解したら近づく、という方ではありません。
むしろ、まだ分からない私たちに近づき、名を呼び、聞く耳を育ててくださいます。
そして新約において、この神の近づきは、主イエス・キリストにおいて決定的に現されました。
神の御子が、私たちの暗い世に来てくださいました。
私たちの弱さの中に、罪の中に、迷いの中に、来てくださいました。
ここで一つの身近な例を考えてみましょう。小さな子どもが、暗い夜に親の声を聞く場面です。
部屋が暗くても、姿がはっきり見えなくても、「大丈夫、ここにいるよ」という声を聞くと、子どもは安心します。声には不思議な力があります。見えない相手を近くに感じさせます。心を落ち着かせます。
サムエルにとって、主の声は最初から分かりやすいものではありませんでした。
しかし、神は声をもって近づいてくださいました。名を呼ぶという仕方で、サムエルを起こしてくださいました。
・私たちは「神の声を聞く」と言うと、何か特別な体験を想像するかもしれません。
耳に聞こえる声、劇的な幻、誰にも説明できない不思議な出来事。
もちろん、神はご自身の自由の中でさまざまな仕方で語られます。
しかし、私たちに確かに与えられている神の声は、聖書の御言葉です。
礼拝で読まれ、説き明かされる御言葉です。祈りの中で思い起こされる御言葉です。
信仰の友を通して、時には家族を通して、時には思いがけない人の一言を通して、
主が私たちを御言葉へ立ち帰らせてくださることがあります。
大切なのは、聞く姿勢です。
礼拝で説教を聞くとき、私たちはいろいろな思いを持って座っています。
「今日は何が語られるだろうか」
「自分に関係があるだろうか」
「あの人に聞いてほしい話だ」
そう思うこともあるかもしれません。
しかし、サムエルの祈りは違います。
「主よ、お話しください。僕は聞いております」。
これは、「主よ、あの人にお話しください」ではありません。
「主よ、私にお話しください」です。
御言葉の前に、自分自身が立つ祈りです。
皆さん、今日の礼拝で、主は私たちの名を呼んでおられるのではないでしょうか。
大勢の中の一人としてではなく、主は一人ひとりをご存じです。
長く教会に通っている方も、最近来られた方も、信仰の確信がある方も、まだ迷いの中にある方も、
主は名を呼ばれます。私たちは、自分の名前が呼ばれると振り向きます。
神の御言葉もまた、私たちを振り向かせます。自分の方向を変えさせます。
自分の思いから、主の御心へと向きを変えさせます。
そして、聞く信仰は一人では育ちません。サムエルにはエリがいました。
エリは完全な指導者ではありませんでした。むしろ、深刻な弱さを抱えていました。
それでも神は、エリを用いてサムエルに聞き方を教えられました。ここに教会の慰めがあります。
私たちは完全な共同体ではありません。牧師も執事も神学生も、教会員も、皆弱さを持っています。
それでも主は、この不完全な共同体を通して、互いに「主の声を聞こう」と励まし合うようにしてくださいます。教会は、完全な人の集まりではなく、主の声を共に聞くために集められた群れなのです。
転――神の言葉は厳しく、しかし救いへと向かわせる
・ところが、サムエルが初めて聞いた主の言葉は、優しい励ましだけではありませんでした。
それは、エリの家に対する裁きの言葉でした。神は、エリの息子たちの罪を見過ごされませんでした。また、彼らを止めるべき立場にありながら、それを充分にしなかったエリの責任も問われました。
サムエルにとって、それはとても重い言葉でした。
朝になっても、彼はその言葉をエリに告げることを恐れていました。
ここで私たちは、神の言葉の厳しさに出会います。
神の言葉は、ただ私たちを心地よくするためだけのものではありません。
時には、私たちの隠している罪を照らし出します。見ないふりをしてきた問題を明らかにします。
家庭の中で、教会の中で、社会の中で、そして何より自分自身の心の中で、
神の御前に正しくないものを示します。神の光は、温かいだけでなく、真実を照らす光です。
しかし、ここで忘れてはならないことがあります。
神の裁きの言葉は、神が怒って見捨てたというしるしではありません。
むしろ、神がなお語っておられるというしるしです。本当に見捨てるなら、神は何も語られないでしょう。
けれども神は語られます。罪を罪として明らかにし、悔い改めへと招き、まことの命へと立ち帰らせるために語られるのです。
私たちは、厳しい御言葉を聞くとき、しばしば身を引きたくなります。「それは私ではない」と言いたくなります。「もっと慰められる話を聞きたい」と思うかもしれません。しかし、病気の診断が厳しくても、それが治療への入口であるように、神の言葉が私たちの罪を明らかにすることは、私たちを滅ぼすためではなく、救うためです。神は、私たちを闇のままにしておかれません。この厳しさの中心に、主イエス・キリストの十字架があります。
十字架は、神が罪を軽く扱われないことを示しています。
私たちの罪は、「まあよい」と流されるものではありませんでした。
神の御子が担わなければならないほど重いものでした。
しかし同時に、十字架は、神が罪人を見捨てられないことを示しています。
神は、私たちを裁いて終わるのではなく、御子を与えて救いの道を開いてくださいました。
今日の招詞で聞いた主イエスの言葉を思い起こしましょう。
「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ」。
主イエスは、暗闇を遠くから批判する光ではありません。暗闇の中に来てくださる光です。
罪ある者のただ中に立ち、十字架でその罪を担い、復活によって命の光を輝かせてくださる方です。
ここで、医師の診察を思い浮かべてもよいでしょう。体に不調があって病院へ行くと、検査によって自分では見えなかった病状が示されることがあります。その結果を聞くのはつらいことです。
できれば何も問題がないと言われたいものです。しかし、真実を知らなければ治療は始まりません。
厳しい診断は、患者を責めるためではなく、治療へ導くためにあります。
神の御言葉が私たちの罪を明らかにするのも、それに似ています。
主は、私たちを責めて終わらせるためではなく、癒し、赦し、新しく生かすために真実を語られます。
エリの家への言葉は厳しいものでした。特に心に留まるのは、エリが「知っていながら、とがめなかった」という点です。これは、何も知らなかった罪ではありません。気づいていたのに、止めるべきことを止めなかった罪です。私たちにも、この問いは向けられます。
知っていながら見過ごしていることはないでしょうか。
神の前に正しくないと分かっていながら、慣れてしまっていることはないでしょうか。
愛をもって語るべきところで沈黙し、悔い改めるべきところで先延ばしにしていることはないでしょうか。
ただし、ここで私たちは他人を裁く方向へ走ってはいけません。
御言葉の光は、まず自分自身に向けられます。
エリの家の物語を聞くとき、「あの人の問題だ」「あの家庭の問題だ」「あの教会の問題だ」と考えることは簡単です。
しかし、福音的な聞き方は、そこで終わりません。「主よ、私の中にある鈍さを照らしてください。
私があなたの言葉を軽んじているところを示してください。
私が知っていながら避けている悔い改めへ導いてください」と祈ることです。
けれども、兄弟姉妹、ここで福音をはっきり聞きましょう。
神の光に照らされることは、恐ろしいだけではありません。
なぜなら、その光は、十字架の光だからです。
主イエスは、罪人を遠くから照らして暴く光ではなく、
罪人の側に立ち、罪人のために十字架へ進まれた光です。
私たちが言い訳できない罪、隠しきれない弱さ、繰り返してしまう過ち、そのすべてを主はご存じです。
そしてご存じでありながら、なお私たちを愛し、私たちのためにご自身を献げてくださいました。悔い改めとは、神の前で自分を失うことではありません。
むしろ、神の憐れみの中で本当の自分を取り戻すことです。
罪を認めることは、絶望への入口ではなく、赦しへの入口です。
十字架の前で、私たちはもう自分を取り繕う必要がありません。強いふりをしなくてもよいのです。
正しいふりをしなくてもよいのです。「主よ、私は聞いております。
どうか私を新しくしてください」と差し出すとき、復活の主は、私たちをもう一度立ち上がらせてくださいます。
結――「主よ、お話しください」と応答して歩み出す
・朝になりました。サムエルは主の神殿の戸を開きます。
夜の出来事を胸に抱えながら、いつもの務めを続けます。ここにも大切なことがあります。
神の言葉を聞いた人は、特別な高ぶりに入るのではありません。
日々の務めへと戻されます。戸を開ける。人に会う。語るべきことを語る。
与えられた場所で、主の前に忠実に生きる。そこに信仰の歩みがあります。
エリに問われたサムエルは、恐れながらも、主が語られたことをすべて告げました。
ここからサムエルは、主の言葉を聞き、主の言葉を語る者として歩み始めます。まだ歳若い少年でした。
しかし、主が共におられました。大切なのは年齢ではありません。経験の長さでもありません。
主が呼び、主が語り、主が共にいてくださることです。
では、今日、私たちはどのように応答したらよいのでしょうか。答えは、サムエルの言葉にあります。「主よ、お話しください。僕は聞いております」。この祈りを、私たちの祈りにしたいのです。
礼拝で説教を聞く前に、聖書を開くときに、一日の始まりに、悩みの中で、決断の前で、この祈りを祈ることができます。
「主よ、お話しください。僕は聞いております」。
この祈りは、簡単なようで、深い祈りです。
なぜなら、私たちはしばしば「主よ、私の願いを聞いてください」と祈ります。それも大切です。
神は私たちの願いを聞いてくださる父です。しかし同時に、信仰はそこにとどまりません。
「主よ、私にお話しください。私が聞きます」。
自分の思いを神に認めてもらうだけではなく、神の御心に自分を開く。
そこに、弟子としての歩みが始まります。教会もまた、この祈りに立ち帰ります。
私たちは、教会の将来を考えるとき、方法や計画を立てます。それは必要です。
しかし、最も大切なのは、主の言葉を聞くことです。主が何を願っておられるのか。
主が誰を呼んでおられるのか。主がどこへ遣わそうとしておられるのか。
人間の声が大きくなるときほど、教会は静かに祈らなければなりません。
「主よ、お話しください。僕たちは聞いております」。
そして、私たちは希望を持つことができます。なぜなら、神のともしびは消えていないからです。
私たちの信仰が弱く見える日にも、神のともしびは消えていません。
教会の人数が少なく見える日にも、神のともしびは消えていません。
社会の暗さに圧倒される日にも、神のともしびは消えていません。神は今も語り、今も呼び、今もキリストの光によって私たちを照らしておられます。
聖霊降臨節を歩む私たちは、聖霊が教会に与えられていることを覚えます。
聖霊は、私たちの耳を開きます。
御言葉をただ文字としてではなく、今ここで語られる神の言葉として聞かせてくださいます。
聖霊は、私たちの心を悔い改めへ導きます。
聖霊は、十字架の赦しを信じさせ、復活の希望に立たせ、世の光であるキリストに従う力を与えてくださいます。
ですから、今日、私たちはこの礼拝から遣わされていくとき、小さな祈りを携えて行きましょう。
「主よ、お話しください。僕は聞いております」。
家庭で、職場で、学校で、病の床で、迷いの中で、喜びの日にも、涙の日にも、この祈りを口にしましょう。主は、聞く者を起こしてくださいます。主は、暗い夜にも名を呼んでくださいます。
主は、消えないともしびとして、私たちの歩みを照らしてくださいます。
最後に、礼拝から日常へ遣わされる私たちの姿を思い描きたいと思います。
サムエルは、夜の神秘的な経験のあと、朝になって主の家の扉を開きました。これはとても象徴的です。
御言葉を聞いた者は、閉じこもるのではなく、扉を開く者とされます。
神との深い出会いは、日常から逃げるためではなく、日常へ新しく遣わされるために与えられます。
家庭の扉、職場の扉、教会の扉、隣人との関係の扉を、主の光に照らされて開いていくのです。
皆さん、私たちもこの一週間、いろいろな声を聞くでしょう。
ニュースの声、人々の評価の声、自分を責める内なる声、不安の声、あきらめの声。その中で、主の声を聞き分けることは簡単ではありません。だからこそ、毎日短くてもよいのです。
「主よ、お話しください。僕は聞いております」と祈る時間を持ちたいのです。
朝の数分でも、夜眠る前でも、通勤や移動の途中でも、心を主に向けることができます。
主は、長い言葉だけを喜ばれるのではありません。砕かれた心、聞こうとする心を喜んでくださいます。
また、教会としても、私たちはこの祈りを共有したいと思います。
伝道の計画を立てるとき、礼拝を整えるとき、子どもたちや若い世代のことを考えるとき、高齢の方々の歩みを支えるとき、地域に仕える道を探るとき、まず主に聞く群れでありたいのです。
人間の知恵も経験も大切です。しかし、それが主の御言葉に聞くことから離れるなら、教会は簡単に人間の集まりだけになってしまいます。教会の命は、主が語ってくださることにあります。
教会の希望は、神のともしびが消えないことにあります。
今日、もし心の中で「主よ、私にも語ってください」と願う思いが少しでも起こされているなら、それは聖霊の働きです。聖霊は、私たちをキリストへ導きます。聖霊は、御言葉を思い起こさせます。
聖霊は、私たちの冷えた心に神の愛を注ぎ、消えそうな信仰の火をもう一度燃やしてくださいます。
聖霊降臨節に生きる教会は、自分の力でともしびを守る群れではありません。
聖霊によって守られ、燃やされ、遣わされる群れです。ですから、安心して歩み出しましょう。
夜は深いかもしれません。時代の空気は重いかもしれません。
教会の課題も、家庭の悩みも、個人の弱さも、すぐには消えないかもしれません。
しかし、神のともしびは消えていません。主イエス・キリストは世の光です。この方に従う者は、暗闇の中を歩かず、命の光を持つと約束されています。
私たちはその約束に立って、今週も生きるのです。
主の声を聞き、主の光に照らされ、主の愛を携えて、遣わされていきましょう。
「主よ、お話しください。僕は聞いております」。
この一言を、今日の礼拝の応答として、そして一週間の祈りとして、心に刻みましょう。
神のともしびは消えず、
キリストの光は私たちを照らし、
聖霊は私たちを聞く者、従う者、証しする者へと造り変えてくださいます。
アーメン。
祈り
・お祈りします。
真の命の神さま、暗い時代にも、あなたのともしびは消えないことを感謝します。
私たちは、あなたの言葉を聞いているようで聞いていない者です。
自分の思いを先にし、あなたの御声を聞き分けられないことがあります。
どうか聖霊によって、私たちの耳を開き、心を柔らかくしてください。
『主よ、お話しください。僕たちは聞いております。』
世の光である主イエス・キリストに照らされ、十字架の赦しと復活の希望に生かされて、
今週も御言葉に従って歩ませてください。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。
アーメン。